待鸛荘から

茨城県・県央、涸沼・千波湖・大塚池・那珂川、どこからでも、自然を待鸛/体感する場所を。県西の次は、鹿行から巣立ち、来年は県央も期待。(令和五年8月)

フジバカマ(藤袴)と「秋の七種」のこと

フジバカマ(藤袴)と「秋の七種」のこと

山上憶良の秋の七種の和歌を覚えられるようになってから、藤袴のことが気になっている。
秋の七種(七草)のうち、最後の「また藤袴 朝貌の花」、『藤袴』と『朝貌』(あさがお;桔梗)が絶滅危惧種になっている。

藤袴の方が気になるのは、桔梗が山に見られるのに対し、藤袴は川にあるからである。
藤袴は河原や川岸の、いわゆる、かく乱された環境に育つ。
茨城県は平地が広く、洪水の被害があちこちで起きている。自分が住んでいる水戸市でも、近くは2019年にあった。直近では、今年2023年、取手市であった。特に、小貝川や鬼怒川のあたりは多かった。長塚節の生家は鬼怒川のすぐ西にあり、小説『土』でも洪水の被害が描かれている。

「例年の如き季節の洪水が残酷に河川の沿岸を舐(ねぶ)つた」

節の生まれ育った町は今は常総市となった。2015年の秋の水害は大きな被害を出した。
長い立派な堤防が整備されたきたわけだが、何処かしらに抜けがあれば大きな自然の力にはかなわない。

藤袴など、少し水辺に出れば、昔はいくらでもあっただろう。
年寄りに聞くと、藤袴は兎の餌にしたそうだ。
藤袴は、「生草のままでは無香のフジバカマであるが、乾燥して生乾きになると、・・・桜餅の葉のような芳香を放つ」(wiki)。蘭草とか香草という名前まである。薬草でもある。
一方で、外来種の丸葉藤袴という毒草が米国から入ってきて広がっているという。
外来生物の管理には人力が必要だ。
水害のあった2015年というのは、2月に長塚節生誕100年の行事が地元であり、著名な歌人の先生が記念講演をなさった様だが、藤沢周平長塚節の作品は共通して「悲恋、お家騒動、美しい自然描写が共通するワンセットの小説」なのだそうだ。
節の師、正岡子規は短歌俳句を革新し、節もまた文芸の革新と貧しい農村の改革も胸に抱いていた。子規の節にあてた最後の手紙が斉藤茂吉記念館にある。
「ソコデ僕ノ考ヘルニハ君ニハ大責任ガアル。 ソレハ君ハ 自ラ率先シテ君ノ村ヲ開カネバナラヌ。 学校モ立テルガ善イ。・・・・・・」
節が天寿を全うしたら歌壇を指導する立場になっただろう。一方で、農村の改革はどうなっただろう。そもそも、節の生きた時代、常総市のすぐ近くの古河市には谷中村の鉱毒問題で田中正造たちが集まってきたが、節はどう思っただろう。多くの心ある人たちが、国家の存亡と、田中正造の残した言葉「真の文明ハ山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さゞるべし。」に引き裂かれた時代だった。
それでも、もし、節が今いたならば、堤防をどう思ったかはともかく、多くの人に万葉集の、また東歌の素晴らしさを教え、河原、川岸に出て鎌を振るったのではないだろうか。

このことを水戸から見る。
1,
偕楽園には「萩まつり」がある。偕楽園は梅の季節の祭ばかりではなく、秋の祭もあるよということだろうが、そもそも、偕楽園は一張一弛と武士以外にも開かれた庭園というコンセプトだから通年、季節ごとに何かしらの呼び物があってもいい。
山上憶良の歌で七種の一番は「萩の花」だから七種の代表であるとして、「萩まつり(七種祭)」としてもよい。ついでに、春の七草のまつわるものも可能だろう(項を改めて偕楽園の事を書きたい)。「開かれた庭園」というコンセプトは、近代的な公園につながり土地も拡張された、狭い他の大名庭園と違って「秋の野」も広く取れるだろうから適地に自然の趣に育てられる。
水戸の植物公園は自然の趣を大切にしたイングリッシュガーデンがある。「七ツ洞公園」がそうなのだが、洋風なのが嫌いな年寄りもいる。しかし、和と洋の自然を取り入れた公園都市という大きなコンセプトも可能ではないだろう。
水戸市植物公園は大変に優秀なので期待したい。
偕楽園は県の施設なので管轄が違っていて、縦割りで動かないのであれば、水戸市の多様な自然地帯も活用したらよいと思う。
何度か書いている「常磐の杜」に繋がる谷地田を流れる石川川は全体に管理されているが、谷地田と合わせて七種を見つけて周遊できる様になったらと思う。

2,
徳川斉昭偕楽園の他にも水戸八景を選び漢詩を作り、この詩は詩吟ともなり詩舞ともなっている。八景の地は水戸藩内なので元石川町の西の那珂湊、大洗、涸沼にもある。
弘道館と併設の鹿島神社には、斉昭の万葉仮名の2つの和歌が歌碑と鐘楼に残っている。
そもそも、水戸学の起源となる徳川光圀は契沖に委嘱し万葉集の注釈書(『万葉代匠記』)を書かせ、契沖は本居宣長の指針となり、万葉集の研究は深まり、正岡子規を通して、もう一度水戸(水戸藩とでも、茨城県とも、また、正興式の忠実な弟子である長塚節水戸一高に通った)に戻ってきたことになる。
記紀歌謡や万葉集東歌において茨城は歌枕が多くの歌が有り、水戸に限っても「曝井」の歌は大事にされてきた。
「水戸八景と水戸の七種」は烈公も喜ぶと思うのだがどうだろうか。