パンドラの憂鬱から;海外「日本人は民度が違う…」 日本人の国民性をFIFAが『常に超一流』と大絶賛
今回は女子サッカーである。例によって、綺麗なロッカールームを大絶賛だが、こういうのが続くと、ずっとおだてられているようで、不安になる。
褒められるのは良いのではないかという人もいるかもしれないが、何故そういうことが出来るのか、それが説明できなければ、何時どうなるか分からない。
片付けをするというのを道徳に入れるなら、仁義礼智信の「礼」に入れられると考えた。
ブラジルからジーコが鹿島アントラーズに来た時に、プロ意識を教え、ロッカールームの片付けも教えた。
「礼」だけでなく、仁義礼智信という徳目は世界中で共有できるということを「五常」の題で少し前に記事にした。
仁義礼智信は儒教の徳目であるが、別の記事の中では、大谷のゴミ拾いは、「情けは人の為ならず」で、仏教的であると書いた。
ロッカールームの片付けを、敢えて神儒仏の三教から説くことも出来る。これは決まった方法が有るわけではないが神儒仏を、交流分析の神道=無意識・仏教=自我・儒教=超自我に分けて当てはめてみる。これも大谷の所で書いた。
儒教から述べる。
正しいことだから行う。社会人はそうあるべきだから行う。などなど、「あるべき」論である。
かつて男子サッカーの吉田麻也選手が「来た時よりも綺麗にすると教えられた」という趣旨の発言をしていたが、ここに分類されるだろう。
仏教ではどうか。
その功徳は自分に返ってくる。自分に良いことがある。移動、宿舎、寝室などで素敵な場所をあてがわれた時に、良いことをした結果であると思う場合もある。
神道ではどうか。
片付けると気持ちが良い。
これらの対応は、あくまでも試論・私論である。
同じことをやっていても個人個人の考えは違っていることも示している。
おそらく日本人の行動が説明がつきにくいのはこうした多様な面もあるからだろう。
もちろん、他の国でも色々な指導の仕方があるし、様々な考えの人がいる。それでも、日本人の方が多様性があるように感じる。
もし、超自我だけだったら、日本人の中で綺麗にしない人をバカにするタイプが増えるだろう。
そうなると、周りは窮屈になる。
日本人で「民度」という言葉を使いたがる人は、そのようなタイプと重なる。それぞれの国の事情があることには余り配慮がないことが多い。それもあって、このテーマを取り上げた。この記事で最初に述べたことと不安感が重なる。
シンクレティズムで説明したがる人もいるかもしれないが、どんな宗教を信奉していても、日本人は上記のような多様な考え方が蓄積された日本語を共有して使っている。
何か1つの概念で日本人を説明しようとするのは、上手くいかないと、私は考えている。
やたらと同調圧力を持ち出す人もいるし、閉塞感という言葉が好きな人もいる。テレビでは、耳目を引きながらも簡単なわけがないネタで「つかみ」を取って(引き込んでから)、高名な先生がスパッと短い言葉でCM前に言う(質問は許さない)というやり方で、笑いのない漫才を長い時間、放送している。